今年話題の新書の一つ。 書店で平積みになっていたので気にはしていたけど、遅ればせながらやっと読んだ。 『差別と日本人』 角川書店発行 「部落とは、在日とは、なぜ差別は続くのか?」 (幸淑玉、野中広務対談集) 「在日」の幸淑玉と「部落」出身で自民党幹事長をも務めた剛腕政治家野中広務との対談集。 幸淑玉が主に聞き手にまわり、野中広務の「部落」出身者としての生い立ちから政治家としての関わり方を聞き出す。 幸淑玉は前書きで言う。 「私自身の言葉をつけ加えながら。彼(野中広務)の言葉の背景に横たわるこの社会の深くて暗い荒野を旅してみたいと思った」 野中は言う。 「・・・それでも、僕が有名になればなるほど、うちの娘や娘婿にも、波紋が広がっていく。婿が一生懸命仕事をする、娘も一生懸命に劇団をつくったりなんかしている。ところが、つめたーい目で見られる」 「孫も中学のころに耐えられない差別を受けたんですよね。孫は絶対地元の高校に行くって言わなかった。」 幸淑玉は答える。 「(私自身)思いっきり闘いたかったんです。でもさっき言ったように、どうやって家族を守ろうかって考えるとね・・・。でも守り切れないまま、ずっと居を別にしていた・・」 所謂「部落」については学校を含めてどこからも教えられたことはなかったような気がする。 周りを見渡しても、「部落」に関わったような人と接した記憶がない。 (鈍感なだけだったのかもしれない) でもいつ頃からだろうか、「部落」という言葉を知ったのは。 学生のころ、島崎藤村の『夜明け前』を読んだ時には既に「部落」という言葉の持つ意味が体感できていたような記憶がある。 一言で言えば「部落」=「汚らわしい」という意識の刷り込み。 自分自身を棚に上げるようでもあるが、日本という社会の暗黙の決まりごとの一つなんだ。 「部落」当事者が持ついわれのない痛みは解るというのは簡単だが、 いざ、もし将来、自分の子供たちが紹介する配偶者が「部落」出身だとわかった時に 自分はどんな反応を示すのか。 忘れられない記憶。 中学2年の時、学期初めての英語の授業のときのことだ。 女性教師が英語で出欠席を取り始めた。 「ミスター××」・・「ミス△△」・・と一人一人を読み上げ、 「ミス ミョウチン」と言った先生は突然に笑い出した。 それまで静かだった教室は先生の笑い声に応えるように生徒の笑い声で 教室中が笑いの渦で溢れ返ったよ。 それにつられて、先生の笑い声も一段と大きくなっていった。 俺も笑ったな。 チラと見た笑われた生徒は泣きべそをかいてじっとしていたな。 この娘は近所に住んでいて、特に話したこともなかったけど、 子供の俺からみても、普段から「薄汚れた」印象しか持っていなかった。 でもね。 俺は笑った後に<先生 謝れ>とも自覚したよ。 (同じように笑った自分は棚にあげてね) 次の英語の授業の始まり。 先生はまた「ミスター××」・・「ミス△△」と出欠席を取り始めた。 彼女の番になったとき、先生が言う前からクラスでは笑いが起こり出した。 先生は笑い声が聞こえるなかで極自然に「ミス ミョウチン」と言って点呼をとったな。先生の顔は自然なままだけど多少怒ったような顔をしていた。 そのことを今でも覚えている。 遠い記憶。 二人の力量があるからだろうか『差別と日本人』は重苦しくてなにやら心が鬱積するような読後感は残らない。 勿論さわやかな気持ちになれるというわけでもないけど、記憶に残る本だ。
by marifami
| 2009-12-02 15:41
| 読書
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