今日5月15日は沖縄の本土復帰40周年とのこと。 終戦後、沖縄はアメリカ統治下にあり、1972年(昭和47年)5月15日に日本に復帰した。 太平洋戦争では沖縄が戦場となり、「ひめゆり」に代表されるように沖縄に住む一般人が戦場の犠牲者になり、沖縄は米軍に占領されたという史実とは別に戦後の沖縄を初めて意識したのは40年前以上の大学時代のことだ。 1968年(昭和43年)に大学に入り、1,2年生の時は大学の寮にいた。 寮にはいって、ほどなく沖縄出身の寮生と知り合いになった。 特に親しくなったという記憶はないが、なにげに聞いた彼の話から当時の沖縄を知ることになった。 彼から聞かされて、今でも憶えていることは 『本土への行き来にパスポートが必要』 『お金は円でなくドル』 『え!沖縄から日本に来るのにパスポートが必要!?なに沖縄は外国なのかよ!』 『なに 沖縄は円じゃないのかよ? 本当かよ!』 彼からパスポートを見せてもらった記憶が残っている。 大学入学は昭和43年で昭和47年の沖縄・本土復帰の4年前だ。昭和43年には沖縄はアメリカ統治下だったのだ。 沖縄が昭和47年に本土復帰まするまでは外国に行くのにパスポートが必要のように沖縄へ行くのにもパスポートが必要だったのだ。40年前までは、これが当たり前だったのだ。 沖縄でのパスポートの件についての詳細は↓参照 YAHOO!JAPAN 知恵袋「昔、沖縄にいくにはパスポートが必要だったって本当ですか?」 アメリカ統治下の沖縄では車両は右側通行で、左側通行になったのは復帰後、6年たった1978年(昭和53年)7月30日だ。これはテレビニュースでの記憶がある。 戦後からもう半世紀以上たち、「日本とアメリカが戦争した」ことを知らない大人がいる中で、沖縄は相変わらず戦後を引きずっている。普天間基地問題に代表されるように、日本における米軍基地面積の75%を沖縄が占め、沖縄本島面積の実に19%を米軍基地が占めている。詳しくは↓参照 沖縄県<米軍提供施設・区域の概要> 在日米軍基地を見たことがある? ここ東京都下・日野は在日米軍基地の一つである横田基地(飛行場)を北に控えている。年に何回か埼玉に向かう時、国道16号沿いに続く横田空軍基地をフェンス越しに横目で見ながらクルマを運転することがある。周りのちまちました建物と比べて、フェンス越しには広大な敷地と滑走路がよく見える。運がよけりゃ(?)、どでかい米軍の飛行機(輸送機)をまじかに見ることができる。ところでだ、これまた年に数回程度だが、横田基地を発着陸する飛行機が通常の飛行コースを外れ、日野の上空を低空で、とんでもない騒音をとどろかせて飛んでいくことがあるのだ。 その騒音たるや、すさまじい。 こんな音が毎日のように聞こえたら、そりゃたまらない。 それとご存じ、神奈川県は横須賀の米海軍(軍港)基地と厚木基地(海軍飛行場)。まぁ、昔はいざしらず、厚木基地周辺は住宅地がびっしりだ。 もう一つ、日野のすぐ南に位置する神奈川県は相模原市。ここにも三つの米軍基地がある。鮮明な記憶があるのは、そのひとつの在日米陸軍の相模総合補給廠(補給センター)だ。かってその横をクルマで通ったとき、延々と続くフェンスの記憶が生々しい。今でも八王子・川崎を結ぶJR横浜線に乗ると、広大な面積を占める基地の一端がよくわかる。
by marifami
| 2012-05-15 22:24
| 新聞テレビ報道
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